作者の地元は鹿児島県の北西部、東シナ海に面した北薩地方の薩摩川内市という所である。わが家はその中心市街地にほど近い場所にあるが、そのごく近所の何でもない普通の交差点の角に、薩摩街道と書いた看板が貼り付けられているのに気付いたのはいつ頃の事だったろう・・。
歩道脇のコンクリ壁に4本のビスで素っ気なく打ち込んであり、高さもあまりないので注意していないと気付きにくい。よく見ると看板の左右のフチは赤く塗ってあり、しかも三角形にとがらせてあるから矢印のように見える。つまりこの左右矢印方向に薩摩街道が伸びている事を示してあるのだろう。地元のお年寄りに訊いてみると、島津公(薩摩藩の殿様)が参勤交代で通った道と言う事で古くから知られているようだ。
この薩摩街道と書かれた看板、九州内でツーリングをやっている人なら、きっとどこかで見た覚えがあるのではないか。看板の形状はその土地によって様々ながら、作者の印象では九州の西岸を走るR3(国道3号線)になんとなく沿いつつ、鹿児島県から熊本県、そして福岡の方向に向かって点在しているように見える。現在の道路も元をただせば昔の街道筋に沿っている事が多いから、おそらく現在のR3や九州縦貫道に相当するような幹線道路だったに違いない。
しかしうちの近所のこの交差点は今のR3よりも200メートルほど東側に位置しており、九州内各所にある薩摩街道の案内看板から類推しても、必ずしも今の道とピッタリ同じ位置にはなかったらしい。ブルドーザーやアスファルト舗装のなかった時代、最短距離で結びたくても途中にちょっとした山や川があれば交通の難所になっただろうから、その都度左右によけて歩かざるを得なかったのだろう。
そこで、ツーリング好きな作者としては、今の薩摩街道はどうなっているのか?という疑問がわいてくる。案内看板をわざわざ路上に設置してあるくらいだから、きっとまだそこかしこに旧街道の跡は残っていて、地元自治体発行のわかりやすい案内地図なんかもあるに違いないと思い、市内の図書館に行ってみた。驚いたのは最近の図書館には分野別に綴じてある図書カードの棚なんかなく、タッチセンサー付きのパソコン検索で一発なのだ、時代の流れを感じる・・。
しかしながら、キーワードをいろいろ入力しても、どうもはっきりとした資料が見あたらない。お隣の市町村に関しては土地ごとの歴史までも詳細に調査したスケッチ付きの資料があったりするのだが、わが薩摩川内市内での旧街道の詳細となると、現用のごく普通の道路地図の上に昔の街道筋が赤い線でざっくり重ねて引いてあるのが1,2点あったきりで、これではちょっと資料としては物足りない。インターネット上で検索してもそれなりの数はヒットするものの、コンテンツの内容は道路案内と言うよりも何だかピクニック気分の記念写真どまりで、現代の幹線道路と旧街道がどこでどう繋がり合っているのか?という根本的な説明までしてあるものは皆無だった。
でもよく考えたら、一部分ではあるものの、薩摩街道はすでに目の前に存在しているわけだ。この矢印看板がどこまでアテになるものかはわからないが、とりあえずこいつを端から順番に辿って行けば、先人の足跡を自分の足でじっくりなぞれるのではないだろうか・・?
というわけで、まずはわが薩摩川内市のエリア内にある旧街道の南端、お隣のいちき串木野市(※)との境界線あたりから始めてみる事にした。
(※)2005年10月11日に旧串木野市と旧市来町が合併し、いちき串木野市となった。
薩摩街道と言っても実は一本道ではなく、島津の居城のあった鹿児島市を発してから途中で3つのコース(東から高岡筋、大口筋、出水筋)に分岐していて、ここいらを通っているのは出水筋(いずみすじ)と呼ばれるもっとも西寄りのコースになる。
今回はオートバイでなく自転車を足に使う事にした。スピードの出る乗り物ではどこに建ててあるかわからない小さな看板を見落とすおそれがあるし、一方通行や規制の多い裏道に入っていけない場合があるからだ。それに昔の人が苦労しながら足で歩いた道を味わうには、自分の足を使う乗り物がふさわしいだろう。
輪行袋に入れた折りたたみ式自転車をかついで、市境に近いJR木場茶屋駅(こばんちゃやえき)に降り立ったのが午後3時半。作者の自宅からここまで約16キロほどあるが、薩摩街道の案内看板に沿って北上していけば、夕方までには例の交差点に達する事が出来る筈だ、さらに時間があったらその先にあるはずの街道筋も探索してみたい。
まずはR3を北進しつつ、案内看板を探さなくては・・と言っても道沿いにはそれらしきものは見当たらない。道を尋ねようにも駅は無人だったし、隣にあるコンビニの若いバイト君に訊いても、古い街道筋の事など知らないだろう。ちょっと行ったところに南国バナナというフルーツ屋さんがあって店先に色とりどりの果物が並んでいるが、ここでも情報を得る事は出来なかった。
R3をもう少し北に行くと、鉄道が高架になっていてR3の上を渡っている。このたもとに売店があったので、ここでジュースを買いがてら近くの人に訪ねてみたところ、どうやらR3のすぐ向こう側に旧道の目印があるらしい事がわかった。
だが道路を渡ろうにも、ここいらは交通量が多い割には横断歩道が全くないので、車列の合間を狙ってダッシュするしかない。郊外の国道だからみんな飛ばしているし、おまけに高架の向こう側はブラインドカーブになっていて見通しがきかないから神経を使う。
目印はすぐにわかった。小さな橋を渡ってすぐの所に、高さ1メートルちょっとの木製の円柱が建ててあり、竹のように斜めにカットされたてっぺんに透明な樹脂板が4本のボルトで固定され、薩摩街道沿線の簡単な地図と由来、そして現在地のアドレスが書かれている。
解説文を引用してみると、
薩摩街道(出水筋)
江戸時代に薩摩藩では街道の事を筋と呼んでいましたが、川内市内には薩摩街道(出水筋)が通っていて、この出水筋は参勤交代にももちいられました。薩摩藩の参勤交代路は陸路と海路がありました。
平成15年10月
図書館で調べた時にもこれと似たような文章を読んだし、簡潔で無難な説明ではあるが、アドレス以外でこの場所特有の情報は特に提供されていないようだ。描かれた地図も縮尺が大きすぎ、この先の道案内にはなり得ない。
この標柱は(社)鹿児島県建築士会川薩支部という団体が建てたものらしく、作られたのは平成15年10月と意外に新しい。ちなみにこのちょうど1年後に川内市は周辺市町村と合併して薩摩川内市と改称されたので、この解説文にある川内市という名称は今は正式ではないのだが、合併後1年以上もそのままという事は、新たにお金を使ってまで細かい修正を施す気はないらしい。もっとも作者も出身を訊かれたら「川内です」と旧市名で短く答える事がほとんどだし、合併して間もない今の段階ではまだこっちの方が通りがよい。
さっきの店先で聞いた話によれば、この標柱から向こう側は道なりに右へと曲がり、すぐ横のR3と平行するようにして東方向へ伸びているらしい。
北緯31度46分09.2秒 東経130度18分30.1秒 標高43.6m (WGS84)
道幅は一部狭いところもあるが、軽自動車が普通にすれ違えるくらいで、周囲もごく普通の住宅地だし、舗装もちゃんとしてあるから江戸時代の街道を走っているという感じはほとんどない。せいぜい旧国道というレベルだろう。
タイヤ工場の看板を右手に見ながら、街道はふたたびR3に近づいていく。そしてゴミ捨て場の角で再合流した。ここにも例の標柱が建っていたが、まあ予想通りと言うべきか、現在位置の表示が変わった以外は地図も解説文もさっき見たのと全く同じ。
三叉路の向こう側は一面のヤブで、ガードレールに遮られて道らしいものは見えないから、旧街道がここを横切っているわけではなさそうだ。ここからまたR3沿いに北へと進み、薩摩川内市街地へ向かうコースを取ろう。
北緯31度46分13.3秒 東経130度18分46.8秒 標高39.1m (WGS84)
再びR3に入り、ペダルを漕いで歩道を進む。ここから反対方向の南に2キロほど行くと標高90メートルくらいの金山峠というピークがあって、そこから道は麓の平地に向けてずっと下り坂になっている。木場茶屋からこの辺りまでもなだらかな下りが続いているから、自転車にとっては楽ちんだ。特にここいらの傾斜は車やオートバイに乗っていてはほとんど感知出来ないレベルのもので、自転車ならではの幸せを感じる。もっとも逆方向に進む場合は試練の登りが長く続くわけだが・・便利な道具や舗装もなかった昔の旅人は、ひとつの峠を越えるだけでものすごい難儀をしていたに違いない。
ところで一般的にはあまり認識されていない事ながら、自転車は軽車両に分類されるので本来車道を走るべき乗り物なのだが、車がハメを外してガンガン飛ばしまくる郊外の国道でいちいち法規を遵守していては、正直命がいくつあっても足りない。たいていの歩道には青い標識で自転車も通行可と書いてある(これは特に自歩道と呼ばれ区別される)が、歩道上ではあくまで歩行者が最優先だから、どけどけ!道をあけろ!とばかりに背後から警音ベルをジリンジリン鳴らして走れば、道交法違反の歩行者妨害となる。無理にすりぬけると接触したり衝突事故にもなりかねないし、そうなった場合は確実に自転車側に重い過失があると見なされる。
ついでに書くと、自転車には車やオートバイのように点数や反則金の制度が適用されないから、違法行為は原則すべて赤切符扱いで、支払うのも反則金ではなく罰金となり、前科もつく。もっとも実際にはよほど悪質な場合でない限り検挙されるケースは稀だが、身に覚えのある人は今後心の隅にとどめておいていただきたい。
R3を1キロも走らないうち、ちょうどトヨタのディーラーがあるあたりで斜め左側に分岐する細い道が見える。その分岐に例の標柱が建っていた。ここは少し急な坂になっている。
北緯31度46分35.6秒 東経130度18分49.9秒 標高30.4m (WGS84)
ローギアで坂道をヨッコラと登りつつ、街道はまたR3から少し遠ざかる。しかし住宅の合間をしばらく行くと、また目前にR3を行き来する車の影が見えてくる。
登ったぶんだけ坂を下り、R3に2回目の合流。ここにも標柱がある。
この先も先程と同じようにR3に沿って進もうとしたが、ふと道の向こう側を見ると、街道のラインを斜めに延長した先に細い道が見えている。案内看板は見あたらないが、たぶんこれが古い街道筋の名残ではないだろうか? 周囲の雰囲気はちょっと怪しげだが、とりあえず入ってみる事にしよう・・。
北緯31度46分51.3秒 東経130度18分51.9秒 標高26.3m (WGS84)
博善社という葬儀屋の看板から入り、オレンジ色の看板が派手なシューズショップの裏手を進む。
ここは一応道路ではあるらしいが、途中コンクリ舗装が終わった後の路面はかなりひどい。ほとんど田んぼのあぜ道のような土の道でゴミも多く落ちており、民家から道を挟んで犬小屋が作ってあったりするなど、なんだか他人の家の裏庭に入り込んでしまったような印象だ。さいわい距離は数十メートルしかないが、出てくる場所も板金工場のすぐ脇で、仕事中の工員さんと目が合ってちょっとした気まずさを感じる。ここはもしかしたらこの工場の私道になっているのではないだろうか?
この細道から出ると、交差する道の向こうに例の矢印看板が現れた。やっぱりこの道で正解だったらしい。この矢印看板の柱部分にはさっきまでの標柱とは違って薩摩街道保存会と記してあった。このような道標設置をやっている団体が複数あるという事だろうか。
この向こう側に続く道もまたあぜ道っぽいが、車が往来しているワダチがしっかりとあって、さっきの裏道よりは快適そうだ。この交差する広い道もすぐ先でR3に接しているから、この工場わきの短い道を無理して突っ切るよりはおとなしく広い方から迂回するのがいいかもしれない。
北緯31度46分56.6秒 東経130度18分54.4秒 標高23.0m (WGS84)
2006年6月11日追記 この部分は現在様相が変わっています。
田園地帯の中を走り、ホームセンター・タカミの駐車場の裏手を横切ると、周囲の町並みもしだいに賑やかになってきた。大きな団地の入り口あたりにあるタカミの大きな看板、その根っこに隠れるようにして矢印看板があった。
矢印はさらに直進を求めているが、前方の道はボサボサの雑草に覆われていて、道なのかどうかもちょっと怪しい様子だ。しかし向こう側には道があるようだし、意を決して自転車を腰だめにかついで雑草の中に分け入った。
北緯31度47分08.7秒 東経130度18分54.6秒 標高19.4m (WGS84)
雑草地帯を乗り切ると、なんとか住宅街の裏手に入る道へと繋がってくれた。ブロック塀ごしにひょっこり顔を出した子犬が、裏道から突然現れた自転車を押す不審者に向かって激しく吠え始めたので、サドルにまたがってペダルを漕ぎ、早々に退散する。
細い路地を道なりに進むと、今度は正面に大きなコンクリの壁が現れた。上に続く急な階段はあるものの、街道は完全に塞がれている形だ。あたりには案内矢印も見あたらない・・。
仕方なくまた自転車を降りて、とりあえず階段を押して上がってみる。後ろの方ではさっきの犬がまだ吠えているのが聞こえる。
初詣の神社ではないが、ちょっと長めの階段があるとどういうわけか登りながらイチ、ニイ、サンと段数を口に出して数えたくなるもので、ここは合計21段あった。この場所は坪塚(つぼつか)児童公園といい、お世辞にも広いとはいえないが、一応公衆トイレもあって、木場茶屋から旧街道沿いに来た人にはたぶん初めての用足しポイントになる。
奥の方には坪塚という地名の由来を表した石碑が建っていた。これは薩摩街道よりもずっと古い時代、大化の改新の頃に始まった租税制度に端を発するらしい。
公園の反対側の階段を下りると(こちらはぐっと少なく7段)、すぐ右側に九州農政局鹿児島農政事務所川内庁舎という早口言葉みたいな名前の鉄筋の建物がある。そこから坂を少し下ると勝目川の堤防に出られるが、ふと後ろを振り返ると、コンクリ壁の角のところに薩摩街道の矢印看板を発見!やっぱりこの公園は街道のライン上に作られていたらしい。
ここから矢印に従うと勝目川に沿って堤防の上を行くコースになるようだ。自動車工場を左手に見下ろしながら進むと、せまい住宅街を抜け出して視界が気持ちよく開けてきた。
北緯31度47分16.2秒 東経130度18分55.7秒 標高18.4m (WGS84)
勝目川はそれほど大きくなく、両岸はガッチリ固められているのでイメージ的には用水路に近い。それでも水草がかなり多くあり、水辺には白いコサギがエサをねらって水面を凝視している。
コース前方に橋が見えてきた。そこで交差する広い道路の向こう側に、矢印看板が建っているのが見える。
近くには食肉加工の大きな工場があって、パートのおばちゃんらしき人たちが仕事を終えたのだろう、右側の道から続々と橋を渡ってくる。現在時刻は午後4時20分。木場茶屋からここまでの行程は約3.8キロ、時間にして40分ほどかかっている。
薩摩街道はここからさらにまっすぐ走っている。おばちゃんたちと挨拶をかわしながら、坂を勢いよく下る。
北緯31度47分24.6秒 東経130度18分55.0秒 標高18.9m (WGS84)
プラッセだいわという大型スーパーの駐車場を左手に見ながら直進すると、隈之城川の手前でメインの道はぐっと右方向にカーブしていて、ほとんどの車はそっちに走っていくが、その角からまっすぐ細い筋が伸びており、麓橋(ふもとばし)という小さな橋で川の向こう岸に渡っている。
この橋の向こう側の欄干そばに矢印看板が建っていた。
ところで、ここで初めて気が付いたのだが矢印看板は同じように見えて実はいくつかのバージョンがあるみたいで、冒頭のうちの近所にあったやつは白くて薄い板に字が書いてあるだけだったが、この場所では木版の上に文字をプリントした透明な樹脂板を4箇所でフローティング・マウントした凝った造りになっている。しかし何かがぶつかったのか、樹脂板の右半分の矢印が欠けていた。
北緯31度47分33.2秒 東経130度18分51.5秒 標高17.4m (WGS84)
さらに道なりに進むと、今度は市比野からいちき串木野の海岸までを貫いて走る県道336号に交差する交差点に出る。ここにも矢印看板が。
ここの看板は矢印の片方がL字に描いてあって、曲がるポイントである事を示してくれている。おそらくひとつ前の矢印看板の欠けた部分にもこのL字があったのではないだろうか。
ここから街道は県道沿いに佛生橋(ぶっしょうばし)を渡って、東側の田んぼの向こうに見える九州新幹線の高架へと伸びているようだ。まず県道を向こう側に渡り、水色に塗られた歩行者用の橋を通って田園地帯の中を一直線に下っていく。
北緯31度47分39.1秒 東経130度18分53.4秒 標高17.4m (WGS84)
ここは佛生橋の近くにある小学校の通学路になっていて、この時間はまだ学校帰りの子ども達がチラホラ見える。この県道も以前はかなり狭かったが、今は奇麗に整備されて歩道もすごく広くなった。歩道の段差もほとんどゼロに近くなめらかに仕上がっていて、自転車で走る者にはとてもありがたい。
このまままっすぐ行くと宮崎町から市比野、そして山間部を抜けて県庁所在地の鹿児島市へと向かう道に繋がる。作者が中学か高校の頃は、都会の鹿児島市まで遊びに行くのに往復の電車代がもったいないから、片道50キロほどの道を自転車でよく通ったものだが、その時の常用コースがちょうどこの道だった。山間コースだからアップダウンはそれなりにあったが、国道よりもこっちを抜けた方が距離が少し短いのと、交通量の多いR3の路肩を車にビクつきながら走るよりはずっと気分的に楽だったのだ。
佛生橋から約500メートル東側、新幹線の高架をくぐる所で、交差点の向こう側に標柱を見つけた
さて、ここからどう進むべきだろうか・・。
標柱の位置からすれば正面から左に分岐する2本のどちらかだが、こういう所に限って矢印看板は出ていない。道なりに進むならまっすぐ坂を上がる方向、平坦ルートなら高架に沿って田んぼの脇を行く道だ。
先ほど街道筋がR3を斜めにまっすぐ横断していた事を考えると、左に折れる平坦路よりも直進に近い方がふさわしいように思えたので、ギアをローに入れ、坂道を越える方向に進む事にした。
しかしこの選択が、この後ちょっと頭を悩ます結果となった・・。
北緯31度47分44.9秒 東経130度19分11.2秒 標高13.8m (WGS84)