さて、3日前の終了地点だった陽成町の鞘脇バス停まで自転車で自走し、再スタートである。現在時刻は午後2時半、今日はこれから夕方までがフリータイムだから、自宅まで帰る道筋の距離(約5〜10キロ)を考えれば、午後5時前くらいまで探索出来るだろう。お天気もそこそこいいし、上手く行けば市内の薩摩街道のゴール地点である、北の阿久根市との市境まで到達出来るかもしれない。
まずは前回からの続きで県道340号を北に向かって進む。この道をずっと行けば川内温泉という古くからの湯治場に出る。その昔西郷隆盛もよく立ち寄ったと言われていて、地元ではわりとメジャーな温泉地だから、作者も家族を乗せて車でたまに通る道なのだが、こうやって自転車で路肩をゆっくり走るのはたぶん初めての事だと思う。そう言えば道端の案内看板など、周辺の細かい様子まではあまり気にした事はなかったから、慣れた道筋ではあるけれどもかなり新鮮な感覚で走れる。
舗装路の右側はずっと山の斜面で、時折民家がある以外はほとんどヤブの中だから、先ほどの鞘脇バス停でぷっつり途切れていた旧街道の痕跡はよくわからない。あるいは今走っている県道の中に埋もれているのかもしれないが、たまに道端に昔の神様を祀ったポイントが看板で示されており、今やこれくらいしか街道沿いの痕跡がないようにも見える。
出発してから500メートルほどの所に妙徳寺というお寺があった。入り口に親鸞上人の銅像が建っているのでけっこう目立つ。ちょっと境内に入ってみたが、木戸がぴっちり閉ざされ、本日の営業?はやってないようだ。お寺というのは古くからあるように見えても意外とあっちこっちに移転していたりするから、ここも旧街道ぞいに昔からあったとは限らないだろう。話を訊こうにも辺りには誰もいないので、境内の隅の方にあった公衆トイレをちょいと使わせて貰ってから、ふたたび県道へ戻った。
数分ほど走ったあたりで、中麦石塔群という鎌倉時代の遺跡を示した案内看板を見つけた。薩摩街道とはあまり関係ないだろうが、ちょっと自転車を停めて入ってみる事にする。こういう道草的な停車は自転車ならではで、オートバイや車では道端に何かを見つけても、いちいち停めて降りるのがどうしてもおっくうになるものだ。
すると入り口から少し奥に入った右側の民家の庭先に白い四角の木柱があって、さつま街道跡と書かれているではないか。なんで表の県道脇でなくここに建っているんだろう?と思ってよく見たら、表の県道から1段高くなっている庭先の部分が、鞘脇のあたりで切れていた旧街道の跡にちょっと似ているのに気付いた。どうやらこの区画だけオリジナルの路盤が残っているらしい。
北緯31度52分08.3秒 東経130度16分10.7秒 標高24.9m (WGS84)
広々とした歩道をさらに進むと、奥薩摩方面と海岸線を結ぶ川薩広域農道と十字交差する。ここには信号はないが(そもそもこの県道自体ほとんど信号はないが)、R3のバイパス代わりにトラックや作業車が一時停止もそこそこにブッ飛んでいくので、横断するときは左右をよく見た方がいい。
このあたりの道の右側、つまり山側を見ると、ヤブの下地は土と言うよりも岩場になっているところが多く、崖から小さな滝が流れ落ちている所もある。現代ならともかく往時はこんな岩場を沿線に渡ってずっと削るのはとても無理だろうから、人間の足で通れる道筋をどうにかやりくりして街道としていたのだろうか。道路や住宅地はともかく、山塊の位置は昔と一切変わっていないはずだから、こういう部分では登山家がよくやるように等高線を追いかけてみると、かつてのオリジナルの道筋が見えてくるかもしれない。
スタートしてから約2キロ、道の向こうに陽成町の中心部とも言える集落が見えてきた。学校や郵便局もあって、何か情報が得られそうだ。
陽成小学校の隣にある公民館の前に、大きな地図が掲げてある。ここに周辺の詳細なガイドと共に町内の薩摩街道のルートも記してあった。沿線には西南戦争の頃の無縁墓が点在していて、かつてこの辺りは大規模な戦場だったようだ。軍隊も利用した街道筋であるなら当然とも言えるが、地図に示してある無縁墓はみな官軍のもので、これまた薩摩藩の内部であれば当然か。そう言えば激戦で有名な熊本の田原坂あたりでは、未だに畑の中から当時の鉄砲玉や遺骨が出てくる事があると聞く。西南戦争が起こったのは明治10年と言うから、明治維新の1868年プラス9で西暦1877年、つまりまだ130年経っていない。歴史年表的にはかなり最近の出来事とも言える。
さて、この親切な地図によると、この先で県道を少し外れて右側に入る場所があるようだ。その先再び県道に合流し、神社の鳥居のあるところで左折、そこから峠道らしき場所を越え、隣の湯田町に入る。この地図を目にしっかり焼き付けて、先を急ぐとしよう。
陽成小学校を過ぎてしばらく行くと、三叉路の右側に例の矢印看板が現れた。ここから右方向の細い筋に入るようだ。同じ場所に一条公墓地入口と書かれた白い柱もあったが、説明が書かれてあったと思われる看板はボロボロに剥がれてまるで読めない。
北緯31度52分44.7秒 東経130度15分55.3秒 標高32.8m (WGS84)
農地の中をのんびり走る細道だが、舗装はしっかりされているので自転車でも快適。このあたりは場所柄、農業を営んでいる家がほとんどだ。
小さな橋のたもとに自然の石がふたつ並べて置いてあったが、よもやこれが先のナントカ公のお墓というわけではあるまい。稲のわら束をかけてあるところを見ると、これもたぶん収穫の神、田の神様(たのかんさぁ)の一種だろう。地面は崩れないようコンクリでならしてあり、まん中に花生け用のビンと、焼酎のワンカップに付いてくる杯がかぶせて置いてある。
たいていの田の神様は田んぼのそばに建ててあるものだが、中には民家の床の間に飾ってあって定期的に持ち回りで移動させたり、前年に収穫の良かった土地の田の神様を夜中にコッソリ盗んで別の農地にうち建て、御利益を得ようとする妙な風習もあったらしい。最近ではそれとは全く別の、古い石像の骨董価値に目を付けた盗難転売事件も時折耳にする。
細道をもう少し行くと、高いブロック塀の突きあたりに矢印看板が見えた。ここから左方向に道なりに進む。その直後にも分岐があるが、県道に直角に向かう方向ではなく今までと同じように山沿いに進む方向へルートは延びている。
北緯31度52分59.9秒 東経130度15分53.6秒 標高36.2m (WGS84)
今は空き地になっている高城青年学校跡を過ぎると、表の県道が左からだんだん近づいてきて、合流点が間近に迫っているのがわかる。
やがて県道の手前まで来たところで再び三叉路で合流。この左の角に標柱が建っていた。ここからまた県道沿いに進む事になる。
北緯31度53分15.1秒 東経130度15分43.1秒 標高36.2m (WGS84)
陽成小学校あたりまでは進行方向の右側(つまり山側)に立派な歩道が整備されていたが、このあたりは歩道自体あったりなかったりで、自転車で車道を右側通行し続けるのも何だから、向こう側に渡って法規通り左通行で走る事にした。車道メインだが、車の往来は少ないのであまり気にはならない。
一条殿バス停を過ぎると、小川の向こう側に赤い鳥居らしきものが見えてくる。さっき公民館前の地図で確認した鳥居の左折ポイントがあれだろう。時刻は午後4時前、そろそろ陽も傾き始めてきた。この先は湯田町に抜ける部分だから、たぶん今までの町境と同じような山越えルートが待っていると思われるが、とりあえず湯田町までは探索の足を延ばしておきたい。
赤い鳥居のある神社の向かいには少し古びた橋がかかっていて、ルートはこの橋を渡る方向に左折するはずだが、進むべき方向を促す矢印看板はこの県道沿いには見あたらない。だが橋を渡ってみて、向こう岸の角に白いL字タイプの矢印看板が建っているのを見つけた。
しかし、これはちょっとわかりにくい。この看板に気付くには、少なくとも橋を渡る事をあらかじめ知っていなくてはならないだろう。さらに逆方向から来た場合も、この橋を渡る所までは一応伝わるものの、その先の県道をどっちに行くかは示されていない。
まあこういう看板を民家の庭先やブロック塀に勝手にバカスカ建てるわけにはいかないだろうから、その都度それなりの交渉が要るだろうし、必ずしも理解を得られるとは限らないだろうから大変なのは何となくわかるが、やっぱりせめてもの補完情報として周辺のルート地図を小さく描き足しておいてくれるとありがたいと思うのだが・・。
そう言えば作者もオートバイでよく遊びに行く阿蘇山周辺の田舎道で、ちょっとわかりにくい分岐の電柱や看板に、バイクツーリング用地図の記号や案内矢印が何者かの手によって書き足してあった事がある。きっとアテにならない道路標識のおかげでさんざん迷ったライダーが、後続の人のために書き残したものだと思う。あいにく今日はマジックペンは持ってきていないが、この薩摩街道の看板でもそれをやってみたらいいかもしれない。でも一応これは保存会の所有物だろうから、勝手に書き足したら怒られるだろうか。それにこんな風にネット上のレポで書いてしまったら私が真っ先に疑われるじゃないか・・というわけで、少々不満は残るものの作者は現場の看板への情報追加は一切しない事にしよう。
北緯31度53分38.3秒 東経130度15分35.5秒 標高46.8m (WGS84)
2007年8月18日追記 バス停や地図上では一条だが、神社の境内にある案内看板や鳥居には一條とある。
橋を渡ってT字を右に折れ、一條神社の前を通って坂道を登る方向へ行く。
しかしここで無情にも工事中・通行止めの看板に出くわした。この先で道路の改良工事をやっているので湯田町側への通り抜けは不可能とある。工期は2月8日から3月20日までで、今日は思いきり当たっている。
うーん、どうやら今回はここまでか・・と思ったが、よく読めば工事現場はここから2キロも先だ。こんな離れた場所に看板が置いてあるのは、たぶん車が通れる迂回路が途中にないからだろう。でもこちとら自転車だから、人ひとり歩ける幅さえあればどうにか通れる。それにもしかしたら、薩摩街道はこの道のどこかでまた違うコースに分岐しているかもしれない・・。
道端の道標を探しながら、現地で入手出来る情報にのみ従って今まで走ってきたわけだが、ここでついに先日入手した薩摩街道保存会編集の案内地図をウエストポーチから取り出した。何だか難問の宿題を前に、ガイドブックの解答集をコッソリ覗き見るような後ろめたい心持ちがなくはないが、メインルートの通行止めは想定外の事態だし、今使わずしていつ使うというのか。
しかし通行止め看板の方の地図描写がかなり大ざっぱなせいか、イマイチ両者の位置関係が把握しづらい。保存会の地図によれば、この先しばらく行くと薩摩街道は今の舗装路を左に外れて民家の横をすり抜け、その先の林道と峠の頂上あたりでふたたび元の舗装路に合流する、とある。問題の工事現場は峠の近くのようにも見えるが、この地図からははっきりとした事はわからない。
とにかくここで考えていても仕方がない。前に進もう。
先ほどの神社の前あたりから登り坂の勾配がきつくなり、3速以下の低いギアでじっくり登っていく。道はさっきの県道よりいいくらいだが、橋の所など部分的にギュッと狭くなる箇所もある。
道が大きく右にカーブしているあたりで、左側の駐車エリアのような部分にさつま街道跡と書かれた四角い看板が建っていた。案内地図にも「民家の脇を抜ける」とあったから、旧街道はここから左に分岐しているように見える。しかしここはどう見ても民家の脇と言うより、他人の家の中庭を突っ切るコースだ。
地図の裏側を見ると、掲載されている写真にこれと同じ場所が写っており、その説明文にも、
一条坂ののぼり口は民家の庭を抜ける形で残っている。この先800メートルは直線の登り坂。
とあり、間違いなく薩摩街道はここを通っているようだ。
しかし今ここを自転車で横切るのはいかがなものか・・。ウォークラリー等の団体主催イベントでは通る事もあるだろうが、今回のこれはあくまで作者個人の趣味で走っているわけだし、たとえ住んでいる方の許可を得られたにしても、人様のお宅のまん中をズカズカ通るのには抵抗がある。川内高校の敷地内だって迂回して通って来たんだから、常識的にはここも同じように迂回すべきだろう。問題があるとすれば、工事中のポイントが峠の合流点より手前だった場合、最悪湯田町側に行けない事もありうるが、まぁ、それはそれで仕方がないじゃないか。
北緯31度51分26.7秒 東経130度16分57.2秒 標高32.5m (WGS84)
坂道を登っていくと、また通行止めの看板があり、ここから道幅がぐっと絞られる。普通車ではちょっと離合困難な幅だ。
左側は谷になっていて、下には休耕田が段々になっている。その向こう側に薩摩街道が走っているのが木立のすき間から何となく窺える。こちら側の道よりもかなり低い位置を小川沿いにずっとまっすぐ伸びているようだ。
こっちの道も舗装路ではあるけれど、勾配はかなりきつい。道が細くなってからはさらに急になり、自転車のギアシフターをいっぱいにねじって1速固定でギッコギッコと登って行く。こんな狭い急坂だが、時々道路工事のトラックが轟音とともに下ってくるので、ブラインドカーブの向こうを常に気にしていなくてはならない。
何やらクラクションを鳴らしながらゆっくり降りてくる車がいるなと思ったら、トラックの前を赤い首輪を付けた犬がノコノコ歩いてくる。こう狭くては抜こうにも抜けないから、運転手さんもかなりイライラしたようだ。犬はこっちを一瞥したが、知らんぷりでまた歩き出し、パンパンとうるさいトラックの先導役を努めながらゆっくりと麓方向へ降りて行った。
登り坂にかかってどれくらい進んだろうか、ようやく峠の頂上らしき部分に差しかかった。左側に矢印看板があり、ここで薩摩街道と合流しているようだ。ハンディGPSによる測定ではついに標高120メートルを越えた。さっきの民家の入り口からここまで移動距離740メートル、高低差は60メートル以上。最初の通行止めの看板からここまでは1.2キロほどになったから、2キロ先と書かれていた工事現場はまだ先らしい。
北緯31度53分48.2秒 東経130度14分59.5秒 標高121.7m (WGS84)
試しに峠部分から薩摩街道を逆に入ってみたところ、ほんの10メートル先にまた別の矢印看板があり、より深い下りの林道を指し示していた。ここにも足を踏み入れてみたが、暗く深いヤブと上下左右の木立に押されて狭くグズグズの土の道が、今上がってきた舗装路の坂よりも数段きつい傾斜ではるか下まで続いていた。
実は、もし可能ならば峠の頂上から逆に入って民家の手前まで行き、ルート走破の補完をしてやろうと企んでいたのだが、はっきり言ってこの荒れた急坂に自転車を担いで分け入ろうなんて気には全くなれない。このままおとなしく湯田町側へ降りるとしよう。
このあたりは山深く、数多くの野鳥のさえずり声がよく聞こえる。峠で一服していると、頭上の梢にシジュウカラだかヤマガラだかがやって来て、すぐ下の人間に気付いているだろうに別に逃げもせず、仲間といっしょにチーチッチとやかましく鳴いていた。
この峠から先は湯田町のエリアで、一転下り坂になるはずだ。案内地図によると薩摩街道は峠の頂上を過ぎてまもなく、ふたたび三叉路で左方向にある別の道に分岐する、と図示されている。
両側に落石防止用の金網がびっしり張ってある峠部分の切り通しをゆっくり過ぎ、下り坂に差しかかる辺りで、確かに左側へと分岐する三叉路が見えた。そこの角にまた通行止めの看板があったから、これで最初の希望的観測通り、薩摩街道を辿る事によって工事現場をうまくすり抜けられる、と思った。
分岐した方向はちょっと登りになっていたが、こっち側が街道筋だと思えばそう苦にも感じない。時間を確認すると現在午後4時15分。このまま湯田町まで降りきったら、そこが今日のゴールだ。ローギアのままゆっくりと坂道を上がって行く。
念のためお断りしておきますと、作者はここからしばらくの間完全に間違ったルートを走っていますので参考にはなりません(笑)
北緯31度53分48.9秒 東経130度14分54.1秒 標高121.5m (WGS84)
三叉路を左に折れて少し行くと、再び三叉路に出会った。
両方とも同じような幅と舗装。右への道は平坦だが、ぐるっとさっきの道に戻るようにカーブしている。左への道はさらに登りが続く。実は案内地図には最初の三叉路の分岐から後のコースは特に書いてなく、次は湯田町に下ってから後の部分まで、何も図示されていない。
この場合、なんとなくではあるが、左側の登り道が正しいように思える。だってさっきの分岐も登り方向に分かれたじゃないか。それに右側の道だとまた元の道に戻ってしまう気がする。
北緯31度53分49.9秒 東経130度14分50.3秒 標高129.7m (WGS84)
左側の道をまたエンヤコラと登ると、またすぐ分岐が・・。
今度も同じように右側がやや平坦路で、左側は登り道。さらに登り側はちょっと草や苔が生えていて、あまり人車の往来はなさそうだ。ここはちょっと迷ったが、やはり左側の登りルートを選ぶ事にする。ふと後ろを見ると、さっきの登り坂でトラックを先導しながら下っていった犬がこっちに歩いてくる。そんなに大きな犬ではないが、ちょっと用心して後ずさり。しかし犬はやっぱり素知らぬ顔をして、さっさと右側の道へと歩いていってしまった。
左側への登りはちょっときついので、降りて押して歩いた。だんだんと木立の中に入っていくが、一応轍も少しはあり、車が往来した形跡がなんとなく残っている。歩きながらふとハンディGPSの液晶スクリーンを見やると、移動軌跡が湯田町とは逆の南方向へと下っていくではないか。
(むむ、これはおかしい・・どうもこっちの道ではないらしいぞ)
途中で引き返し、元の三叉路からさっき犬が歩いていった方向に進む。迷っている間、犬はちょっと先のあたりをウロウロしていたようだが、こっちが動き出すのを見てか、また同じ方向に歩き出した。
北緯31度53分50.5秒 東経130度14分48.1秒 標高139.3m (WGS84)
ややきつい坂を上がりきると、左側に牛小屋らしき続き屋根と、向かいには携帯電話会社の電波塔が建っていた。
牛の鳴き声はするが、人の気配はしない。さらに先に行くと道は下りに転じたが、とうとうどれも未舗装の山道状態となってしまった。そしてまた左右の分岐が・・。
正直なところ、さっきからココロの奥底では「これはどこかで道を間違えてるな・・」と薄々感づいてはいたのだけれど、作者の悪い癖と言うべきか、論理的に回れ右をするよりも、どうにかしてこのまま進みつつリカバリーを果たしたいという気持ちが勝ってきている。
今にして思えば、この時点で街道筋を踏破するというメインテーマ自体どっかに飛んでしまったようだ。つまり道を見失って困っているのに、どこかで今のこの状況を面白がっている自分もいる。
というわけでふたたび眼前の二者択一クイズに挑むが、左側は風倒木で入り口が塞がれていて、その先もヤブだらけで人の立ち入った痕跡が見えない。それに較べて車の轍がわずかに見える右側の方が少しはマシに思えた。かなり薄暗いが、行ってみるしかないだろう。
ところでさっきの犬はどこへ行ったろうか。いつしか鳥のさえずりも聞こえなくなり、自分以外、辺りには動くものの気配はもうない・・。
北緯31度53分55.1秒 東経130度14分44.6秒 標高152.0m (WGS84)
苔だか蔦だかの生い茂った路面をゆっくりゆっくり、ブレーキを絞りながら下って行く。山間の受信状態の悪いところばかり走ったせいか、ハンディGPSの電池が切れかかってきた。こういう時に限ってスペア電池を持ってきていない・・。
とにかくここを下れば、どうにか元の道に戻れるだろう。
でももし行き止まりだったら・・この坂をUターンして登るしかないが、その時はその時だ。不安な道行きながらも、左側の木々のすき間から赤い夕陽が差してきているから、なんとなく北に向かっているのがわかる。
木々の間をすり抜けるようにして林道を駆け抜けると、ふと空が明るくなって前方にT字路が見えた。今降りてきた道よりはかなりマシに見える。ここを右へ行くと登りだが、これは明らかにさっき分岐していた道のどれかに通じている気がする。左側は下りで、気分的にもう登りは勘弁して欲しかったので、左に進む事に。
北緯31度54分401.1秒 東経130度14分47.5秒 標高121.0m (WGS84)
さっきの道よりは良好な舗装状態の下りを、右に左にカーブしながらずんずん下る。それでも路面の段差をドンと越えるたび、フレーム中央にある折りたたみ部分からチッ、チッ、というヒンジピンの擦過音が聞こえる。リア側のバンド式ドラムブレーキも連続ブレーキで過熱したのかキーキー音が出始めた。本来街乗り専用の安物自転車でこんな山道を走っちゃいけないんだろうが、とりあえず家に帰るまで保ってくれる事を祈る。
下るにつれて周辺に畑や梅の木が見え始め、ようやく民家の屋根が現れた。土手の向こうには舗装道路も見える。
やれやれ、ほっと一息・・。
小川を渡り、民家の間を抜けて表の道に出ると、もう時刻は午後5時前となっていた。こちら側の通行止めの看板によれば、とりあえず問題の工事現場は通過出来たらしい。
北緯31度54分12.5秒 東経130度14分43.2秒 標高54.4m (WGS84)
午後5時ちょうど、高城西中学校と湯田小学校のある町内の中心部に到着。このあたりの薩摩街道は所々で消失しているらしいから、探索は案内地図を見ながらでないと少々むつかしい。これはまた次回に回そう。
それにしても、どこで道を辿り間違えたろうか。峠を越えた辺りまではよかったのだが、その先には道標や案内が出ておらず、頼みの案内地図にも詳しい事が書かれていなかった。たぶんあの辺りの枝道を全部ローラーしていけば見当はつくだろうが、今からでは時間も気力もない。とにかく今日はこれまで。明日は土曜で丸1日フリーだし、ゆっくりと相手をしてやる事にしよう。