明けて土曜日の朝9時、朝食もそこそこに、車に自転車を積み込んで湯田町へと向かった。昨日は峠部分でコースミスしているから、少しバックしてそのあたりの再探索から始めてみよう。
自宅を出発してR3から湯田町内に入り、昨日降りてきた峠方向へ進み、近くにあった道路脇の駐車スペースに車を置いた。ここから西にひと山越えれば海岸線で、すぐ近くには肥薩おれんじ鉄道も走っているから、最初の木場茶屋駅でやったように列車を利用した輪行でもよかったが、1時間に1〜2本しか来ないローカル線よりは車の方が何かと自由だし、実のところ予定時間よりもちょっと朝寝坊して、自宅から駅まで自走するのが面倒だったのだ。
自転車を組み立ててウエアを着込む。今日はお天気はいいが、この時間の山はちょっと冷えるから素手では寒い。カメラ、地図、ハンディGPSのバッテリー等を確認し、ここから薩摩街道保存会編集の案内地図に従って、旧街道のルートを逆方向から攻めて行く。
通行止めの看板を抜け、昨日山の中から出て来た所の交差点を過ぎると、すぐ先で通行止めの元凶である道路補強工事が行われていた。しかし工事区間はほんの10メートルくらいだし、すぐ右側にある小川の土手沿いにも道があるから軽自動車程度なら難なくパス出来る。
(なんだ、こんな程度の工事に大げさな看板を出しやがって!)
もっともこのあたりの道幅では対向車が来ても離合は無理だから、迂回の指示は適切な判断と言えるかもしれない。
工事現場を過ぎたあたり、カーブミラーのある左カーブから、右に入る舗装された細道がある。案内地図にもこれと同じような位置にルートが図示されているから、たぶん本当は峠側からここに出るべきだったのだろう。
1.5車線幅の舗装路を進むと、すぐに峠に向かって勾配がきつくなる。山の中ではあるが、道沿いには民家がずっとあって、昨日山中で迷った時の事を思えば寂しい感じはまったくない。梅の木もいろいろな種類が植えられていて、見事な枝ぶりを見せている。しかしコンクリ舗装になった辺りから傾斜が猛烈に急になり、とてもじゃないがペダルを漕いでは上がれない。ヨッコラセと自転車を押して歩いていると、上の方に道が見えた。たぶん昨日の峠からの下り道だろう。
ようやく坂を上がり終えたところで見覚えのある舗装路に合流した。ここから少し先に上がってみると、やはり昨日通ってきた峠の切り通しが見える。昨日はその直後にあった三叉路から左方向へ入った(その結果迷ってしまった)のだが、実際には今登ってきた所が本当の街道筋への分岐だったわけで、つまり切り通しを過ぎてから2つめの三叉路を左に入るのが正しいルート。
よく注意して見れば、間違った分岐の所から正しい方の分岐も下の方になんとなく見えている。すぐ横の角に通行止め予告の赤い看板があったせいか、地図の線どおりここから分岐すれば工事箇所をクリア出来る・・と思い込んでしまったように思う。逆にもし地図を持っていなかったら、分岐にこだわらずにこのまま坂を普通に下って、普通に湯田町に入れていただろうから、こう言っては何だが、案内地図を持っていた事がかえって混乱の元になってしまったようにも思える。ここは是非とも双方の分岐点に矢印看板の増設をお願いしたいところだ。
ようやく謎が解けたところで、今来た道をまた戻ろう。正しい街道筋とは言ってもここの坂がまた相当なもので、一部では勾配20%にも達していたから、下りでも自転車には乗らずに降りて歩いた方が安全だ。
北緯31度53分53.1秒 東経130度14分54.4秒 標高104.0m (WGS84)
坂道を下りきると、ふたたび元の道に合流する。このすぐ先では現在工事中なので、峠側から見て左方向、田んぼの向こう側に小川が流れており、その横に車1台通れる幅の道が付けてあるからそちらへ迂回する。
案内地図によれば、このあたりの旧街道はこの田んぼのまん中を右に左に折れながら進んでいたらしく、現在はこの小川のほとりにわずかに残っているだけらしい。というわけで、このまま小川沿いに進もう。
北緯31度54分08.9秒 東経130度14分50.7秒 標高51.8m (WGS84)
小川の横の道も、普段はせいぜい農作業の軽トラくらいしか通らないんだろうが、今の工事をやっている車輌が入るせいか、場所によってはかなり深くえぐられているし、路面もズブズブになっているから、足をとられてコケないようにゆっくり進む。
右側には田んぼがいっぱいに広がっていて、その向こう側に峠からの道が走っている。峠からこのあたりまでは道標のたぐいは一切建っていなかったから、ここばかりは案内地図を持っていないと間違いなく見落として行くだろう。湯田町も周辺の町と同じく古い遺跡の案内をあちこちに建てて、それなりに大事に保存しているようなのだが、薩摩街道の峠越えからこの部分に関してはあまり注意を払われていない気もする。それとも農作業で忙しい田んぼの中を作者みたいな閑人探索者にむやみに歩かれても困るから、わざと案内を付けてないのだろうか。
というわけで川沿いに一部残る旧街道にも目印と言えるものはないようで、大まかな推測でたぶんこのあたりだろうと思われる箇所を撮影した。手前には人の渡れる橋が作ってあり、ここから先の山中にある愛宕神社の前まで、向こう岸づたいに少し平らな部分がある。といっても自転車でもって入れるような道ではなく、あくまで昔の道の痕跡といった風だから、対岸から眺めるだけにしておく。全体の長さはおおむね250メートルあった。
北緯31度54分15.3秒 東経130度14分32.8秒 標高38.3m (WGS84)
旧道の跡から表の道に出ると、すぐ先には学校や消防、郵便局のある中心街がある。
ここを右に折れてすぐ、道路右手にある簡易郵便局の隣に、薩摩街道の標柱が建っていた。
北緯31度54分22.2秒 東経130度14分20.4秒 標高37.6m (WGS84)
北緯31度54分23.7秒 東経130度14分20.9秒 標高37.1m (WGS84)
近くの校庭では子ども達がいっぱい集まってサッカーで遊んでいた。昔はグランドに仲間が集まったら竹ぼうきとゴム球で野球をするのが当たり前だったけど、今はそういうのはあまり流行らないらしい。
高城西中学校の敷地内には電子基準点というツクシの親分のような金属製タワーが建っている。これは作者の自転車にも付けてあるハンディGPSと同じ人工衛星からの電波を利用した測量施設で、地図作成や地震・地滑りの精密観測に使われているらしい。ネット上でも測定情報が得られるが、この湯田町の観測データは今は公開されていないようだ。
学校を後にしてちょっと行くと、古びた橋がある。これは上湯田橋という名の石橋で、奇麗な丸いアーチが周囲の道筋からもよく見える。道はこの橋の上だけちょっと狭くなっているが、往来する車はちゃんと橋の両岸でお互い譲り合って行き来している。もっとも現代の幹線道路みたいに交通量の多い道では、とてもこうは行かないだろう。
作者はこういう古い橋が好きで、ツーリング先で出会ったら写真をバシバシ撮りまくるのが常なのだけど、地元に近い場所にあるものはあまり撮影する事がなかった。写真がなくてもちょっと出かければ現物をじっくり味わえるからなのだが、この上湯田橋もこうやってカメラを向けるのはほとんど初めてのように思う。
見かけはいかにも古い石橋だからさぞ昔から旧街道を支えていたのだろうと思いがちだが、実は造られたのは大正時代も半ばになってから。眼鏡橋というと観光スポット的な響きもあるが、この上湯田橋のように一連アーチの小さな石橋というのは、今でも少し田舎の方に行けば思いのほか多く残っていて、それぞれの地元で探してみるとけっこう見つかるはずだ。中にはコンクリで上からびっちり塗り固められたのもあって興ざめするが、昔から人々の生活を文字通り支えてきた古い石橋には、言葉では上手く言い表せない不思議な魅力がある。
石橋のすぐ先には一時停止の三叉路があり、そこに道標が建っていた。高い鉄製の角パイプに3枚の看板がくっついていて、いつもの矢印看板とするとお金がかかっている印象。銘は入っていないが、たぶん市か町が作ったものだろう。
ここから旧街道は道なりに直進する。
北緯31度54分31.0秒 東経130度14分17.4秒 標高38.3m (WGS84)
少し行くと、正面に諏訪神社が見えてくる。神社の前でT字に交差しているやや広い道は山向こうの川内温泉から海岸線に車で抜けるメインルートになっているが、このひとつ手前にある交差点の電柱の影に矢印看板が建っていたから、薩摩街道はここから左に入る。ここも石橋側から来ると裏向きになっているので、注意していないと気付けないかもしれない。
北緯31度54分35.2秒 東経130度14分16.1秒 標高39.8m (WGS84)
ここの横道に折れずにまっすぐ行くと、T字の突きあたりに諏訪神社がある。その入り口にこんな看板が立っていた・・。
細いながらも舗装された道を進むと、何やら白っぽい変な所に出た。路面はもちろん、左脇の小川の底石のひとつひとつ、さらに近くの民家の石垣まで、モルタルを全面に流し込んで道を丸ごと固めてしまったかのようだ。よく公園の中にあるコンクリート製の人工の小川のようで、なんでこの部分だけこんな風になっているのかはわからないが、細くて狭い旧街道が崩れないようガッチリ固めて歩きやすくするためだろうか。小川が横にあるから、たぶん増水するたびに路面が崩れていたのかもしれない。
傾斜はかなり急で、ここも自転車を降りて歩いた。右側はずっと竹林が続いていたが、そのうち杉林となり、葉や杉の実がびっしり落ちていて、ちょっと滑りそうだ。
坂道をしばらく行くと、途中から階段となった。あまり角度が急だから、段を付けざるを得なかったのだろう。しかし階段と言っても段数はやたら少なく、上面の傾斜も今までの坂とあまり変わらないから、かえって歩きにくいだけのような気もする。
階段をようやく越えたら、表の広い道に出た。この峠の頂上部分が湯田町の境界線だ。ここの左側の角に標柱が建っている。ここの地名、削切(けずりきり)とはいかにも切り通しのある峠にふさわしい字(あざな)だ。
北緯31度54分37.5秒 東経130度14分05.1秒 標高87.1m (WGS84)
さて、いよいよここから旧街道のいちばん北にあたる西方町へと足を踏み入れる。この町の端まで行けば、もう向こう側はお隣の阿久根市だから、市内の旧街道を辿る旅のゴールは近い!
ところで案内地図によれば、旧街道はこの峠部分から舗装道路を左に外れて山の中を進んでいる、と図示されている。しかしその間は点線で描かれていて、今はもう消失しているらしい。確かにどう見てもただのヤブで、気軽に入って行けそうな筋は見あたらない。とりあえずはこのまま峠を越えて、海岸線を目指そう。
坂を下る途中で横に入る筋があり、ちょっと入ってみると何やら街道筋に繋がりそうな感じもするのだけど、自転車で入れるような道ではないし、無理して突っ込まない事にした。案内地図によればここの下にある集落のあたりからまた街道筋は始まっているようだが、これも地図を見なければ全くわからないだろう。
一条峠の時のように、向こう側に回り込んで辿り直そうかとも思ったが、もうここまで来たらわずかなルートの辿り残しを気にするのもあまり意味がない気がするし、そもそも地図を持っていなければまず行かない場所だから、このまま自然な流れで市境を目指す事にした。
広々とした坂をひとしきり下っていくと、向こう側に青い海が見えてきた。市内の南にある木場茶屋から出発して、薩摩街道はここで初めて東シナ海に出会ったわけだ。街道沿いに吹き渡る海風が心地よい。
この坂をずっと下っていくと、踏切を渡ったあとで海岸の手前に出た。そこで隈之城町辺りで別れたっきりのR3に再合流している。
ここの合流部分には西郷隆盛が温泉につかっているのを模したマネキン人形が作ってあって、ごていねいに屋根までこしらえてある。西郷隆盛と言えば銅像にもあるような四角い顔に太い眉毛がトレードマークだが、一説にはご本人はこういう容姿ではなかっらたしい。西郷隆盛は大の写真嫌いで、今残っている肖像はほとんどが後世のイメージで作られたものらしいのだ。東京上野の西郷さん像に至っては除幕式の時に西郷の奥さんが「あまり似てないですね」とか「西郷はこんな格好で出歩かなかった」とこぼしたそうだし、名前や功績が知られている割にはその実像について未だ謎が多い人物でもある。
道の向こう側は海水浴場になっていて、少し斜め向かいの駐車場脇に、さっき石橋のそばにあったのと同じタイプの道標が建っていて、薩摩街道はR3を北へ向かえという指示がしてある。
北緯31度54分40.4秒 東経130度13分28.9秒 標高17.2m (WGS84)
横断歩道で向こう側に渡り、R3を北へと進む。隣の阿久根市につながるメインルートだから車はかなりのスピードでひっきりなしに走っていて、横断歩道があっても誰も自転車や歩行者のために一時停止なんかしてくれないから、あまり気軽には横断出来ない。ここいらの歩道の幅もかなり狭く、いかにも車優先といった印象だ。これで前から歩行者が来たらお互いちょっと困るだろう。
しばらく行くと、この西方町でたぶん唯一の信号機つき交差点がある。この三叉路の角に、例の標柱があった。ここからR3は海岸線から少し離れる方向になるが、薩摩街道はこの三叉路を海沿いに左に入るようだ。
よく見ると道標の下には西方御仮屋跡まで200メートル、と描いた白いプレートがあった。御仮屋と言えば薩摩川内市街地の向田本町にもあったとされる殿様ご一行専用の宿泊施設だが、ここ西方町にも同様のものがあったらしい。
北緯31度54分48.6秒 東経130度13分26.5秒 標高16.7m (WGS84)
R3から左に入り、細い筋をまっすぐ進む。このあたりは左右ずっと住宅地で、見方によっては旧街道の宿場の雰囲気を今に残しているようにも思える。しかし店はさっきの三叉路に小さなのが1件あったきりで、以前はスーパーやコンビニもあったが、この何年かでなくなってしまった。殿様の宿泊地が作られるくらいだから往時はすごく賑やかだったろうが、正直言って今は夏場の海水浴以外ではR3ドライブの通過点のひとつという印象しかない。
入り口から200メートルほど入ると、左側に確かに古い石造りの門柱と壁があり、道脇に大きな案内看板が建っていた。
西方御仮屋跡 北緯31度54分52.9秒 東経130度13分22.8秒 標高14.1m (WGS84)
看板に書かれた内容によれば、慶長7年(西暦1602年)に島津家久によって設置され、この場所を含む周囲一帯に屋敷があったそうだ。という事は相当な規模だったわけで、今も残るこの門柱は単なる勝手口のひとつにすぎなかったのかもしれない。
ひとつ前の宿泊所である向田本町からここ西方町まで、ハンディGPSの記録によれば20キロ弱あったから(もちろん道に迷ったぶんはカットしてだ)、殿様ご一行はこの距離を1日かけて歩いたという事になる。今の感覚で考えればちょっと短い気もするが、荷物を山ほど持ってあの数々の峠道を徒歩で越えたわけだから、これくらいが限界だったのかもしれない。
御仮屋を後に、さらに奥へと進む。橋を渡ると左手にアパートがあり、右側には駐在所があった。その先で道は二股に分かれている・・。
案内地図にも書いていないし、もちろん矢印看板もない。だがここでまた二者択一でコースミスをするのも学習能力がないように思われそうだから、おとなしくさっきの駐在所で道を尋ねる事にした。結局正しい薩摩街道は左側の急な登り坂の向こうに伸びているらしい。ちなみに右に行くと行き止まりで、誰かの家の庭先に行き着くだけだそうだ。
手すり付きの急坂を歩いて登ると、右手に西方寺がある。寺と言っても看板が掛けてなければ普通の民家と見分けがつかない。薩摩街道保存会の案内地図にはこの西方寺の東側を抜けるよう図示してあるが、現在の道は寺の西側にある。地図を基準に道を進むと右の筋から袋小路に迷い込む事になるだろう。
北緯31度55分00.4秒 東経130度13分16.5秒 標高11.4m (WGS84)
急坂を越えると、なんとそこは一面の墓地だった。お墓の間を細い道がずっと向こうまで続いている。陽成町の山越えでも道の脇に古いお墓があったが、もしかして街道筋の脇にお墓を建てるのはわりとポピュラーな事だったりするのだろうか。
時刻は午前11時を回っている。海からの風がちょっとあるが、時折日も差して気持ちいい。しかしこの時間帯でよかったと思う。この墓地のど真ん中を薄暗い夕方に1人で歩いて通るのはちょっと度胸が要るだろう。
お墓の向こう側は海に面していて何もないから、台風の時などは相当強い風が吹きまくると見えて、奥の方には倒れたままになっている墓石もあった。まっずぐ建ててもどうせまた倒れて直すのが手間になると踏んでか、本来は縦方向に建てるべき石をゴロンと横向きに寝かせてある横着なお墓もあったりして、こういう場所ではあるけど、ちょっと微笑ましい。
ようやくお墓エリアを過ぎると、右側には携帯電話の電波塔と電柱の列、そして左側は海への断崖絶壁となっていた。はるか下の方には岩場で白い波が砕け、西の水平線の向こうから季節風がビュウビュウと強く吹き付けてくる。付近にはガードレールもなく、爽快であると同時にちょっとスリリングな場所だ。
道はこの先で北隣の阿久根市と境界を接するはずだから、市内を巡ってきた薩摩街道の探索行もひとまず終わりとなる。正直なところわかりにくい箇所や面倒くさい部分もあったわけだが、もうじきゴールを迎えるとなると、もうちょっと手間をかけて調べ回ってもよかったかなと、少し惜しい気がしてくる。
牛小屋を右に見ながら坂を下ると、ぱっと広い場所に出た。左側には水産業の工場があり、ここから左に折れて、陸橋で電車の線路を越えてさらに向こう側の坂道を下ってゆく。
北緯31度55分21.2秒 東経130度13分15.3秒 標高26.1m (WGS84)
ここはたぶんR3の旧道区間でもあるはずで、両側はヤブで荒れているものの、道幅もあって舗装もしっかりしている。
途中踏切で線路を越え、この先はR3とふたたび合流するのだが、実はもうこの道の途中で薩摩川内市と阿久根市の境界線は越えているはずなのだ。R3側にはちょうど峠のピーク部分に看板があるが、こっちには特に何もない。途中紅白に塗り分けられた円柱が建っていて、下の海岸の岩場にも同じ物があったから、もしかしたらこれが市境の目印だったのかもしれない。
さて、向こう側に車の往来で混み合うR3が見えてきて、ついにゴールを迎える時が来た。ここは現在工事中で一方通行規制をやっている。作者の自転車が旧道側から近づいてきたのに気付いた係のお兄ちゃんが、親切にも旗を降って車の流れを停めてくれたが、こっちも手振りで「違う違う、私はここで停まるんだよ」とやる。そのまま停止線の部分に自転車を停めて写真を撮り始めたのを不審そうに見ていたが、そのうち本来の仕事が忙しくなったのか、こっちには目線を一切寄こさなくなった。
R3との合流点 北緯31度55分52.4秒 東経130度13分12.5秒 標高21.8m (WGS84)
木場茶屋からここまで合計29.3キロ。これで薩摩川内市内を通っている薩摩街道(出水筋)はおおむね自走制覇出来た事になる。厳密には途中何カ所か抜けがあるが、案内通りに走ってこられる部分はすべて踏んで来たはずだし、とりあえずは満足、満足だ。
ここから先、阿久根市から向こう側の旧街道はどうなっているのかとも思うが、どうやら薩摩川内市内よりも情報が乏しく、少なくともネット検索では保存会のような団体も見あたらない。向こうの図書館に行ってみればまた何かいい情報が転がっているかもしれないが、それはまた次の機会にしよう。
さて、そろそろお昼も近い。車を置いてきた湯田町まで戻ったら、川内温泉にでも寄って帰るとしようか・・。
おしまい