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地元の薩摩街道を辿る

見落としていたルートの追補

薩摩街道保存会編集の案内地図を元に、走行中に探し出せず欠落していたルートを後日もう一度辿ってみた。

木場茶屋のスタート地点

木場茶屋駅周辺の地図

本当の最初の標柱木場茶屋駅よりやや南、いちき串木野市との境界線付近に設置されていた。

薩摩街道はちょうど市境にあたる境橋(さかいばし)のたもとからR3に出て、数十メートルほど狭い歩道を通り、線路側の民家のすき間に入っている。ここに川内市教育委員会製の薩摩街道の大きな看板があり、角に例の標柱が建っていた。

この間から細い旧道が線路の方へ伸び、レールを横断した先にも道の痕跡が続いているように見える。しかしここには踏切はなく、むき出しのレールなので歩いて渡るのはちょっと危ない。


木場茶屋町字小吹(こばんちゃやちょう あざ こぶき)

境橋のたもとから始まる薩摩街道 歩道の右側に標柱と看板がある 標柱のプレート 歩道から右側へ入る 看板の横を通る細道 線路の向こう側へも道が続く

北緯31度45分50.1秒 東経130度18分26.9秒 標高47.0m (WGS84)

草藪の中、旧街道の痕跡らしき場所

線路の向こうには道の痕跡が数本、草ヤブの中になんとなく残っているものの、どれもすぐ先の山中で細く途絶えているようで、正しい道筋がどれなのかは判別はむつかしい。

この先旧街道は鉄道のガード横にある前田酒店のあたりから出てR3を横切り、作者が最初に見つけた標柱へと繋がっている。


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タイヤ工場から先の消失部分

木場茶屋R3周辺の地図

木場茶屋からその後のルートでは、タイヤ工場の角にあった標柱からR3に沿って走ったが、実際の旧街道はR3を横断して向こう側に伸びていた。

いちき串木野市側から流れてくる勝目川に沿うように、川向こうには平らな道跡とおぼしき部分も見えるが、実際にそこが旧街道だったのかは不明。このあとふたたびR3に接近し、川永野橋で勝目川を越えた所から、民家の間を抜ける細道として一部が残っている。


木場茶屋町(こばんちゃやちょう)タイヤ工場向かい

旧街道はR3を横断して向こうへ 今は入っていける場所ではない 勝目川に沿っているように見える

北緯31度46分13.3秒 東経130度18分46.8秒 標高39.1m (WGS84)

川永野町(かわながのちょう)公民館付近

川永野橋のあたりから入って 川永野公民館の横を過ぎ 民家の玄関先で終わる

始点 北緯31度46分12.8秒 東経130度18分47.7秒 標高35.6m (WGS84)

終点 北緯31度46分25.6秒 東経130度18分52.5秒 標高30.6m (WGS84)

川永野公民館先の旧街道消失点

川永野の公民館を過ぎてしばらく行くとT字路があり、正面は民家と大きな倉庫、その向こうも完全にヤブになっていて進めない。

この先にあるトヨタのディーラーあたりからまたR3に出て横断し、その向こう側に標柱が建っている。


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宮崎町の分岐と合流

宮崎町周辺の地図

ちょっと悩んだ宮崎町の分岐だったが、実は矢印看板を1箇所見落としていた。それもそのはず、進行方向から見て反対側のブロック塀の裏側に設置してあったためだ。

スーパーだいわを過ぎた直後の交差点から左側に入ると、塀の裏側の低い位置に矢印看板があり、ここから住宅の間の細い道を下る。下った先で平坦路側の旧街道と合流する。つまりこの部分は上も下も正しい街道筋であったようだ。


宮崎町(みやざきちょう)スーパーだいわ付近

だいわの角を左へ ブロック塀の裏にある矢印看板 横に電柱もあって見つけにくい

北緯31度47分56.9秒 東経130度19分16.0秒 標高30.4m (WGS84)

民家の間を下ると 下の方の旧街道と合流する

北緯31度48分01.4秒 東経130度19分05.3秒 標高15.5m (WGS84)

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宮崎町から向田町の巣山踏切まで

宮崎町から向田町への消失部分の地図

上記の宮崎町の分岐と合流を過ぎて、ふたたび三叉路で合流した街道筋はまたすぐ県道と別れ、畑のまん中を突っ切るように伸びていたらしい。

このあたりは一面の田んぼや畑で、最近では九州新幹線の巨大な車両基地も置かれ、どこが旧街道だったのかは明確でないようだ。現在新幹線の線路に沿って奇麗に舗装された側道が伸びているので、昔の薩摩街道を辿るには県道36号よりもこちらを通った方がより近いかもしれない。

この先の道筋は、JR巣山踏切から左に入る細い道の途中に、ちょっと唐突な感じで田の神様(たのかんさぁ)とおぼしき塑像が祀られていたので、おそらくこのあたりに接続する形で伸びていたのでは?と想像する。


宮崎町(みやざきちょう)ガソリンスタンド付近より左折

ENEOSのスタンドから左折し 農地を横切って高架へ 四角いトンネルを抜け

北緯31度48分13.3秒 東経130度19分02.9秒 標高17m (WGS84)

宮崎町(みやざきちょう)新幹線車両基地付近

トンネルの向こうで右折 まっすぐ行けば踏切に出る

北緯31度48分15.5秒 東経130度18分53.1秒 標高15m (WGS84)

向田町巣山踏切(むこうだちょう すやまふみきり)付近

田の神様あたりで合流している? 細い裏道を踏切方向へ 踏切で県道と再合流

北緯31度48分25.1秒 東経130度18分45.8秒 標高17.2m (WGS84)

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西方町の消失部分の出口

西方町の消失部分の地図

湯田町から西方町へ出る西方峠から山中に消えていた旧街道の出口。
西郷さんの温泉人形からR3を少し南に戻ると、左側に矢印看板が見える。ここから左に線路をくぐって奥に入ってゆき、小川に沿ったコンクリ舗装の細道が行き止まりになっている部分が旧街道の出現ポイント。R3からここまでは500メートルほどで、そばには白いトヨタ・チェイサー・アバンテの廃車が放置されていた。

山道の向こう側へは踏み分けた跡があったものの、自転車で入って行けるような雰囲気はない。

西方町字白滝(にしかたちょう あざ しらたき)付近

完全に山の中のけもの道 境界部分に白い放置廃車 唐突に表の道に出る

北緯31度54分31.3秒 東経130度13分47.6秒 標高33.8m (WGS84)

西方町字白滝(にしかたちょう あざ しらたき)人形岩前

R3に合流して左へ 角にある矢印看板 ここからR3を北へ

北緯31度54分33.6秒 東経130度13分29.5秒 標高18.6m (WGS84)

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おまけ

陽成小学校の御茶屋跡の石碑 2006年2月24日

陽成小学校の御茶屋跡の石碑

陽成町の中心部にある陽成小学校に、殿様が参勤交代の途上で休憩してお茶を飲んだという藩公御茶屋の跡を示す石碑が残っていると聞き、立ち寄ってみた。

小学校の裏門から入って、中におられた先生(都合お2人)に石碑の撮影をしたいと申し出たのだが、なんとご両名ともそんなものが校内にあるとはご存じない風で、ちょっと困った。それでも校庭側の校長室の向かいに何か古い石碑があるようだと言われたので、行ってみたら確かにそこに御茶屋跡の石碑があった。細長い四角柱に藩主御茶屋と彫られ、補修の跡から見ても割れた形跡があるように見えた。
それにしても先生方が地元の史跡、それも自分の勤務する学校内のものについてご存じないとは・・(^^;)。


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山之口町のタカミ裏は工事中で通行不可 2006年6月11日

工事中で通行止め 田んぼは更地につぶされている タカミ側から見たところ

その1で書いたホームセンター・タカミの裏手へ抜ける田んぼの中のあぜ道があったが、2006年6月現在、周辺一帯の田んぼをつぶして造成中のため全面通行止めとなっている。ここから先に進むにはタカミの国道沿いに面した大きな駐車場から入って裏側に回るか、すぐ次の信号交差点から右に入ってやり過ごす必要がある。

ここに何が出来るのか、工期はいつまでか、そして完成後ここを通れるようになるのか? 等々、詳細は今のところ全く不明。

舗装工事が進んでいる

2006年8月3日追記 上記の2ヶ月後の模様。通行止めはあいかわらずだが、あぜ道同様だったタカミの駐車場の裏道はびっちりとアスファルト舗装されていた。田んぼのまん中を通っていた旧街道にもコンクリートの縁石が敷かれ、この後整備される予定とか。

歩道が開通

2007年1月20日追記 路面の工事はほぼ終わり、歩道が完成している。矢印看板の位置は左側へ移動されていた。周囲はまだ工事中なので通行時は注意が必要。

広大な駐車場を貫く薩摩街道

2007年6月6日追記 田んぼだった周辺はがっちり舗装され、巨大なパチンコ屋の駐車場へと変貌をとげていた。その広大な敷地のまん中を、茶色い舗装面に生まれ変わった薩摩街道が、かつてのあぜ道の曲線のままに延びているのが何とも面白い。矢印看板の柱もきちんと埋設されており、店側に街道筋を保存する意図があったのは明らか。一時は消滅も覚悟したが、パチンコ屋さんの粋な計らいに感謝。

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R267交差点の工事はほぼ終了 2006年6月19日

金網に付けられた矢印看板 橋を渡った後左折

その2で書いたR267交差点の先にある久礼橋の架け替え工事はようやく通行止めが解除され、車でも往来出来るようになっている。
ただし今まで橋を渡った直後の曲がり角に位置している民家の塀に打ち込んであった矢印看板が、現在はなぜか橋の手前、R267にかかる歩道橋の下の駐車場のフェンスに移動してあった。この位置では次の曲がり角が明示されないので街道筋の案内看板としてあまり好ましいポジションとは言えないが、先の民家もこの工事に合わせて塀を新しく作り直したようで、また元の位置に戻されるかどうかは不明。

2014年10月6日追記 あれから8年経過するも、矢印看板は駐車場のフェンスに付けられたままで民家の塀には戻っていない。

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夏草で埋まる街道筋 2006年6月20日

夏草の生い茂る旧街道 西郷どんの腰掛け石も埋もれれそう

本編を書いたのは真冬の2月だったが、ふだん人の通わない山間の街道筋は、繁茂期には背の高い夏草で埋め尽くされ、どこが道なのかよくわからない有様となる。この時期に街道踏破を目指す人は、長袖に長ズボンなど野歩き用の服装が必要となるかもしれない。

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参考文献

薩摩街道(出水筋)パンフレット

薩摩街道(出水筋)パンフレット

本文中でも紹介した薩摩街道保存会編集のパンフレット形式案内地図。道沿いの情報が豊富で入手も容易、携帯にも便利なので街道筋の散策のお供には最適と言える。


これ以下の書籍は薩摩川内市立図書館に所蔵されているものだが、ほとんど禁帯出扱いで外部には持ち出せない。

川内市文化財ガイドブック

川内市文化財ガイドブック

川内市教育委員会文化課発行の史跡ガイドブックで、A5版サイズ全編カラー印刷40ページ。薩摩街道の道筋が現代の地図と重ね合わせてかなり詳しく描かれている。薩摩街道沿線はもちろん市内全域(旧川内市の範囲に限る)に点在する重要な史跡がほとんど網羅され、主なものは写真つき。ただし発行が2001年8月とやや古く、今とは道筋が異なっている所もある。

2006年11月13日に発行元に問い合わせてみたが、現在在庫切れで増刷の予定もなく入手は困難との由。図書館以外では薩摩川内市歴史資料館でも閲覧出来る。


川内の郷土史を考える

川内の郷土史を考える

郷土史家の山田慶晴氏による、川内市の史跡に関するわかりやすい解説。冒頭部分の数ページに薩摩街道を訪ね歩いた記録が簡略地図つきで掲載されている。


みずのまち市民大学 続ふるさと川内の歴史探訪

続ふるさと川内の歴史探訪

第六回 水引郷の薩摩街道の収録ページに街道筋の大まかな地図と、川内市街地にあった渡し場に関する記述あり。


薩藩江戸上り道中記 上・下

薩藩江戸上り道中記

参勤交代の道中(出水筋・陸路)のもようを記録した手記。薩摩藩の藩士が書き残したと推測されているが、正確な年代や筆者の名前等は不明。

往時の交通事情を知る上で大変貴重な文献ではあるが、あまりに達筆すぎて一般人にはとても読めたシロモノではない。


千台

機関誌・千台

薩摩川内郷土史研究会が毎年3月に発行している機関誌。2006年現在で36号まで出ている。12号と20号に川内市街地の渡し場周辺に関する詳しい記述があり、それ以外の巻にも街道筋のお話が散見される。

上記の薩藩江戸上り道中記を、木場武則氏の手により読みやすく現代文に直したものが23号、24号に収録されている。


西方の歴史と史跡を訪ねて

西方の歴史と史跡を訪ねて

薩摩街道の市内の北端にあたる西方町周辺の史跡案内。御仮屋跡の記述がある。街道筋の情報についてはそれほど詳しくない。


旧出水街道の歴史と史跡を訪ねて

旧出水街道の歴史と史跡を訪ねて

南隣の串木野(現・いちき串木野市)郷土史研究会・小野義文氏著。串木野市内における薩摩街道出水筋の詳細な踏査レポート。白黒のコピー本ながら、手書きスケッチとこまやかな文章で綴られた詳細な調査結果は圧倒的な情報量で、これを見てしまったら「串木野市内に関しては、個人レベルじゃもうやる事ないなあ」と思ってしまうほど。

これは貸し出し可となっている。


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薩摩街道と篤姫 2008年4月2日

篤姫 わたくしこと一命にかけ

2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」。
幕末期の薩摩に生まれたお姫様が、激しい時代の波に翻弄されながらも前向きに生きてゆく物語。ドラマは宮尾登美子著「天璋院篤姫」をベースにしており、史実を元にしながらも若干のアレンジが加えられている。

主人公の篤姫が薩摩国から江戸に向けて出立するに際し、錦江湾から船出して故郷の桜島に今生の別れを告げる、という感動的なシーンがあるが、このドラマの時代考証を担当されている鹿児島大学(当時)・原口泉氏の著書「篤姫 わたくしこと一命にかけ」によれば、実際には船を使った危険な外洋航路は使われず、陸路の薩摩街道を北上していたらしい。

篤姫が江戸へ出立した日は嘉永6年(1853年)8月21日というから、今から150年ほど前の事。
作者が安物自転車で辿った薩摩川内市内の薩摩街道は出水筋と呼ばれるルートだが、陸路は他にも白銀坂で有名な大口筋や、宮崎県の都城方面に抜ける高岡筋などがあり、篤姫一行が作者と全く同じ道を辿ったかどうかは定かでない。

しかしながら出水筋の街道を北に進んだ出水市野田町(島津家の墓所がある)には、篤姫が残したと伝えられる品々が今も保存されているという。


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