入った最初こそ薄暗い林の中で少々ビビリ気味だったが、目が慣れるにつれて意外に歩きやすい道なのにはちょっと驚いた。道脇の草や風倒木をどかした跡など、明らかに誰かが最近手入れをした痕跡が見られる。たぶん近所の方が山仕事がてら、わりと頻繁に出入りしているのかもしれない。こういう山道は人が通らないと、すぐに荒れ荒れになってしまうものだ。
足を止めてよく観察してみると、土の間に石が置いてあるのがわかる。もしかしたら街道筋の石畳の痕跡だろうか?時代はもちろんわからないが、表面をさわってみると不思議ななめらかさがある。これが薩摩の殿様ご一行を始めとする昔の人々が踏みしめ歩いて削れた跡だとするなら、ちょっと痛快ではないか。
ただ、さっきの矢印看板からここまで街道の案内らしきものは一切なかったから、もしかしたらこの道ではないのかも・・?という一抹の不安は消えない。
そのうち路面の様相が変わり、土が流れて岩がむき出しになっている部分が続くようになってきた。しかも下り坂になっており、苔むした岩で足を滑らせないよう、自転車を杖がわりに押しつけながら、そろりそろりと坂を下る。
入ってからどれくらい歩いたろうか、下り坂の奥のあたりが明るくなり始め、出口が近いのがわかる。木々の間からも現代のアスファルト舗装の道や車の走るのが見えて、ようやく江戸時代から21世紀に戻って来れた心持ちだ。傾斜部分を降りきったあたりで、左側にさっき上り坂の途中で見た丸太組看板と同じものが建っていた。やはり同じように派手な彩色で耳切坂(みんきいざか)とあるが、という事はこのルートで正解だったのだろうか?
平地に出ると、工事途中で放っておかれたようないいかげんな石畳(明らかにごく最近のものだ)が十数メートルほどあり、その向こうに何やらまた看板が建っている。
近づいてみると・・やった!薩摩街道の矢印看板だ。やはりこの道で正解だったようだ。黒地に白文字だから高来校区モノらしい。
幅広の支柱にはこれも白文字で西郷どんの腰掛石とあり、これは看板のすぐ隣にあるひと抱えくらいの大石の事だと思われる。特に由来は書いてないが、多分さっきの手水鉢と同じようなものだろう。
北緯31度51分26.7秒 東経130度16分57.2秒 標高32.5m (WGS84)
草っ原の中から表の道に出ると、地区の広報掲示板のところにも矢印看板が。これもさっきの腰掛石と同じ幅広タイプの支柱だが、柱の材質はアルミで、家庭用門扉か何かの部品を流用して作ってあるように見える。てっぺんにある矢印部分は細くシンプルで一方向(右側)にしか指向していない。
この矢印通りだと、正面に見えている工場風の建物の右側を抜けるコースのようだ。さっきの山越えで高城町を抜けたので、ここからは陽成町(ようぜいちょう)のエリアになる。ハンディGPSの軌跡データによれば、矢印看板の所で山道に入ってからここに出るまでの移動距離は約500メートル。しかし鬱蒼とした林の中で衛星電波が届きにくい場所もあったから、あまり正確ではないかもしれない。
北緯31度51分27.2秒 東経130度16分55.1秒 標高33.2m (WGS84)
工場の駐車場を左手に見ながら快適な舗装路を進み、白いガードレールつきの小さな一戦川橋を渡ると、左の角にまた幅広支柱の矢印看板があった。細身の矢印がさも当然だといった風で、暗い山中へ続く細道の入り口を指向している。
せっかく薄暗い山道を抜けてホッとしていたところだったのに、また山越えをしなければならないのか・・。
北緯31度51分26.7秒 東経130度16分46.1秒 標高35.8m (WGS84)
ふたたび自転車を押しての山歩き。だがさっきの耳切坂で多少の度胸はついたから、今度は不安もあまり感じない。何よりこの道しか選択肢がないという、明確な道標の建て方によるところが大きいだろう。
ここは最初からある程度の上りで、土がちょっと滑りやすいが、慎重に歩けばどうという事はない。途中小さな丸太を越えたりする部分があって、むしろこれは旧街道気分を満喫させるための演出ではないかとさえ考えられる余裕も生まれた。
そのうちピーク部分を過ぎると視界が開け、下の道が見えた。そして出口の右側に矢印看板が待っていた。この区間はさっきより短くて移動距離は約140メートル。高低差も10メートルほどで所要時間は10分もかからなかった。
ここの矢印看板は柱式ながら全面ホワイトで、銘は陽成校区生涯学習振興会、2002年2月とある。
北緯31度51分24.8秒 東経130度16分40.4秒 標高41.9m (WGS84)
さて、矢印に従えばここから通りを横断して直進するようだが、正面の空き地に入っても前方に道らしいものは見あたらず、ただ畑が広がっているだけだ。畑の向こう側はシラス台地の山肌が切り立っていて、どう見ても普通の道は通っていそうにない。
(学校の所みたいに、またここで別の道に迂回するのかな・・?)
時間は午前11時半を回った。今朝の天気予報で午後から崩れて雨が降るような事を言っていたが、確かにちょっと前から空模様が重たくなってきている。見上げれば見上げるほど、今にも雨が落ちてきそうだ。
(時間はまだあるけど、余裕をもってここで打ち切って、また次回に回すか・・)
などと考えながら畑の周りをうろついていると、ふと向こう側にあるむき出しの山肌に、工事現場なんかでよく使う黄色と黒のトラロープが見えているのに気付いた。
もしかしたら、あれが旧街道だろうか。山のそばまで行ってみると確かにそこは細い道のようになっていて、左側には杭が打ち込まれ、手すり代わりのトラロープが渡してある。しかし傾斜がすごい!これはもうナントカ坂とかいうレベルではなく、登山に近いものがある。試しにちょっと登ってみたが、部分的に45度くらいはあるのではないだろうか。公園の滑り台だってここまで急じゃないだろう。こんなところを本当に殿様のカゴかきが登ったというのか?
とりあえず表の道に停めてある自転車まで戻り、下にある民家まで行って尋ねてみた。するとやっぱり旧街道はあのトラロープを登るコースになるらしい。
ここの方もまたいろんな情報を教えてくれて、今日通ってきた街道筋の山道は、実はつい最近草刈りなどをやって大掃除をしたばかりなのだそうだ。どうりで歩きやすかったわけだ。この3月には街道筋を歩き抜くウォークラリーのような催しもあるそうで、きちんと管理してくれた人たちのおかげでここまで来れたと言ってもいい。
ただし徒歩ならともかく、あそこを総重量15キログラム以上はあるはずの自転車を引いて登れるだろうか?ここに自転車を置いていくわけにも行かないし・・。
あの先の道に自転車を持って行けると思いますか?と訊いてみたが、意外にあっさりと「ちょっと急だけど大丈夫でしょう。平気ですよ」と返された。こう言われちゃ、今日はここでやめておきますとは言いにくい。ついでに、この先自転車で行けそうにない箇所はありますかね?と問うたところ、
「うーん、まだそんなに先までは行った事ないんだよねぇ」
おいおい、またそれかよ・・。
とにかく、やるだけやってみよう。もし崖の上から落として壊したって、ここからならバス停まで歩いて帰れるさ!
ほとんど崖下とも言える所まで自転車を運び、どういう体制で引っ張り上げるかしばし検討する。近くの家で屋根瓦を張っていた大工さんが、なんだか不思議そうにこっちを見ている。そりゃそうだ、まさかここを自転車担いで登るとは普通思わないだろう。だいたい上がった先だってどうなっているか知れたものじゃない。しかし先ほどのお話を信ずるなら、とりあえず歩いては行ける筈だ。だったら自転車くらいどうにかして運べるのではないか。
考えた結果、フレーム根本を右手でつかみ、左手でロープをたぐりながら、自転車を地面に置いては上がり、そこからまた引っ張り上げて上にドスンと置いては上がる方法をとった。もっと軽量なスポーツ車なら肩に引っかけてでもいいだろうが、この重ったるいスチール製の安物自転車ではそうもいかない。
靴の先で土を掘り、時には膝で体重をささえながら、休み休みでどうにか上まで持ち上げきった時は、下界を見下ろしながら何とも言えない達成感を感じた。そしてこの場所になぜ階段みたいなものが付けられていないか、なんとなくわかったような気がする。
ようし、難所をまたひとつクリアしたぞ!
登った先は確かに未舗装の山道だが、道幅はけっこうあり、さっきまでの山道とすると快適だ。木々もまっすぐで、覆い被さるような梢が近くにないから多少は開放感がある。しかしもちろん自転車に乗って走れるほどいいわけではないから、おとなしく押して歩く。
しばらく進むと右側に何やら石碑のようなものがある。よくよく見ると彫られた文字の最後に居士とあるから、どうやら誰かのお墓らしい。年号には元禄とあるから、まさに江戸時代。これは今で言うなら一級国道や高速道路の路肩にお墓があるようなものだろうか。あまりジロジロ観察するのも何だから、軽く手を合わせて先を急ぐ。
お墓を過ぎると、だんだん道が狭く険しくなりだした。木々も密生していて薄暗く、路肩部分も雨か何かで崩れたままなのかトラロープが張り巡らしてある。木の間を縫うようにして1メートル半くらいの段差を降りる所もあったが、自転車を上に担いでどうにか切り抜けた。
この先は道も下りで、周囲は杉林から孟宗竹に変わってきた。地面には落ちて間もない竹の葉がびっしり敷き詰められている。その下は苔が生えた岩がゴロゴロしているから、滑り落ちないようにゆっくり降りる必要がある。
どうにか坂を下りきると、目の前が明るくなった。坂越しに畑や民家の瓦屋根が見えている。山道を終えたところで、右手の角に矢印看板があった。薩摩街道保存会モノで、木製プラス透明樹脂製の豪華版だ。斜めに建っているところを見ると、このまま表の舗装路には降りずに1段高いところを旧道が走っているようだ。すぐそばにある民家の屋根とほぼ同じ高さがある。
北緯31度51分32.1秒 東経130度16分25.3秒 標高37.8m (WGS84)
ここは下草がよく払われていて石もない平坦路だからかなり歩きやすい。しかし鋭く出ている雑草の切り株がタイヤに食い込みそうなので自転車は押して行く。
下にある民家の庭に植えられた梅の木がちょうどいい高さで張りだしているので、花の観賞にはもってこいだ。これが桜の木なら文句無しの花見ベストポイントになるだろう。
途中でイボ神様と書いた看板が建っており、隣にお地蔵さんのような石彫りがあった。
朝早く誰にも会わずにここへ来て、
私のイボをとってくれたら、私の歳の数だけ豆を煎って差し上げます
と言って拝むとイボが治る、という言い伝えがあるそうだ。ついでに今のこのあたりが薩摩街道の原型をとどめている唯一の場所なのだという。まあ確かにあの崖みたいな急坂や路傍のお墓は他の場所にはなかったが、つまり往時はこのような所がそこかしこにあったという事だろうか。こんな道を家来を大勢引き連れて定期的に往復していたとは、殿様稼業もなかなか大変だ・・。
イボ神様 北緯31度51分36.2秒 東経130度16分24.2秒 標高36.6m (WGS84)
さて、時刻はちょうど12時を回った。本日のアタックはここまでらしい。すぐ下を走る県道340号に降りたところで写真を撮っておしまいにするとしよう。出口はごく普通の民家の脇にあって、鞘脇バス停のちょうど前になる。薩摩街道の矢印看板は建っていないが、かわりに陽成校区生涯学習振興会の案内看板があった。
北緯31度51分37.8秒 東経130度16分22.0秒 標高32.5m (WGS84)
どうやら旧街道はあの高さのまま続いていたようだが、ここでぷっつり切れているらしい。ここからは切れた先を追って県道沿いを進めばいいわけだ。そのうちまたどこかで看板にぶつかる事だろう。
さっきから小さい雨粒がポツポツと落ちてきている。本降りになる前に、急いで帰らなくては・・。
この2日間の探索でお世話になった数多くの矢印看板。これを建てたのは主に薩摩街道保存会という団体らしいという事はもう何度も書いたが、翌日この団体にちょっと連絡をつけてみる事にした。先日の図書館では薩摩街道のルートに関する詳しい資料は見つけられなかったが、本当にこの街道の案内地図のようなものはないのだろうか?図書館の蔵書をしらみつぶしに当たるのも手だが、やっぱり一番手っ取り早いのはその道の権威に直接訊いてみる事だ。
連絡先はネット検索ですぐに出た。さっそく電話をかけてみたら、代表者の丸目直樹さんという方があっさりこう答えてくれた。
「私どもの作ったわかりやすい地図を配布していますよ。小冊子の形で、先日も図書館に百部ほど置いてきました。」
なんと本ではなく、電器店のカタログみたいに自由に持ち帰れるタイプの小冊子になっていたとは・・どうりでパソコンの蔵書データには入っていなかったはずだ。親切にも丸目氏は途中で道に迷ったときのためにと、見知らぬ作者にご自身の携帯番号まで教えてくれた。こういう熱心な人々がいるからこそ、あの山道もヤブに埋もれず往時のまま保存されているのだなと痛感した。
その日の夜に自転車を走らせて図書館に向かった。わが市の図書館は一年中ほとんど休みなしで毎日夜9時まで開いているのだ。探し求める薩摩街道の地図は、2階に上がるらせん階段のちょうど真下に束になって置いてあった。保存用と持ち歩き用で2部拝借すると、さっそく家に帰って今まで通ってきたルートと見比べてみた。
努力?の甲斐あってか、ほとんどの道筋は正解ながら、中には見落としていた矢印看板や標柱もある。でもこの模範解答を片手にもう一度走りなおすのもちょっとシャクだから、今までのぶんはそのまま置いて、あとで写真だけ撮りに行くとしよう。
地図によると、これから通るべきルートは今では消失してしまっている部分があちこちにあり、分岐点の案内看板も少ないようで、たぶんこの地図なしには探し出すのにかなり難儀する所もあるように見えるが、やっぱり基本はこれまでと同じく道端の道標を頼りに自力探索で進み、途中どうにも迷ってしまって、もう降参だ!となったらこの地図を頼る事にしよう。その方がツーリングとしては面白いし、後日話のタネにもなる。さらに図々しく言わせて貰えば、この地図や道標にある不備を指摘出来るような情報をネット上で提供出来れば、保存会の方々にもちょっぴり恩返しが出来るのではないだろうか。
さて、次回のトライに備えて自転車に油でも差しておくとするか!